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古代末期から中世コンスタンティノープル



東ローマ帝国の首都、コンスタンティノープル。そこでは、様々な王朝が開始され、繁栄し、そして消えていった。1000年間に及び、偉大なるローマ帝国の系譜を継いだこの大都市は、いかなる歩みをたどって行ったのか。


コンスタンティノープルには、様々な別名が存在する。例えば、現在名イスタンブール。その他にも、建設当時の「ネヴァ・ローマ/新ローマ」、現代ギリシア語の「コンスタンディヌーポリ」、ラテン語名の「コンスタンティノポリス」などである。


この都市は、東ローマ帝国の首都であっただけでなく、東方キリスト教の中心地となり、全ギリシアの崇敬を集め、現在のアヤソフィアにはギリシア正教会の総主教座が1453年まで置かれ、正教会の総本山としての機能を果たした。


建都


ヨーロッパとアジアを結ぶ要衝であったビザンチオンは、古代ギリシアの植民都市に起源を持ち、古来よりアジアとヨーロッパを結ぶ東西交易ルートの要衝であり、また天然の良港である金角湾を擁していた。


324年秋、時のローマ皇帝コンスタンティヌス1世 (大帝) がライバル・リキニウス帝を破ってローマ帝国ただ1人の正帝になった。コンスタンティヌス1世はそのことを誇りに思ったと言い、そのこと記念して、旧ギリシア植民市ビザンチオンを改築、新たに「コンスタンティノポリス」、すなわち「コンスタンティヌスの都」と命名した。その後、330年5月11日にコンスタンティヌスは自身の宮廷をここに移した。旧市街の城壁から西に約3kmのところに城壁が建造されたが、これは現在「コンスタンティヌスの城壁」とよばれている。この城壁は、金角湾とマルマラ海を結んだ。


この遷都にはいくつかの伝説があり、当初コンスタンティヌス1世はトロイに遷都しようと考えていたが夢でイエス・キリストの啓示を受けて変更した、とするものや、カルケドンを予定し建設工事に取り掛かったがワシが道具を咥えてビザンチオンに飛び去った、また夢に現れた老婆が美しい女性に変貌し、このように古い町ビュザンティオンを新生するよう求められたという。また新都の城壁建設にも伝説があり、コンスタンティヌスが自ら槍を手に地面に線を引いて城壁の位置を指示したが、余りにも長く続くので従者が聞くと、コンスタンティヌスは「私の前を歩く御方がお止まりになるまでだ」と答えたという。


コンスタンティヌス1世は崩御する少し前に洗礼を受けた。当時の風習では、年を取るか死の間際になってから洗礼を受けるのが一般的だった。そして同年の聖霊降臨祭の日(5月22日)にニコメディア近郊のアンキュロナの離宮で崩御した。


コンスタンティヌス1世の遺体は紫衣に包まれた金棺に納められてコンスタンティノープルに運ばれ、高官たちの礼拝を受けた後に諸使徒聖堂に安置された。伝統的なローマの葬儀ではなくキリスト教の作法による葬儀が行われ、キリスト12人の使徒たちの石棺(遺体は安置されていないハリボテであったが)の中央に13番目としてコンスタンティヌス1世の棺が安置された。


381年この地で第2回公会議が開かれ、その大司教座がローマのそれに次いで第2位となることが決議され、宗教的にも東方のキリスト教の中心地となった。正教会は、後の教会大分裂の後にはローマ・カトリック教会と並ぶ権威を持つとされT、東ローマ帝国はもちろん、ロシア、ブルガリア、セルビア等の全正教会勢力の総帥として活躍し、それとともに、コンスタンティノープルは正教会の信徒たちの聖地となった。


東ローマ帝国の首都として


ローマ帝国の東西分裂後、410年に西ローマ帝国の神聖なる首都ローマが西ゴート人により掠奪を受け、帝国の東方でもフン族がドナウ川の北に迫ってくると、東ローマ皇帝テオドシウス2世 (在位:379-395) は、コンスタンティヌスの城壁よりさらに2km西の地点に、全長7kmの外壁と内壁よりなる2重の城壁 (テオドシウスの城壁) ができた。


その結果、防衛体制は大いに強化され、現在も残っている難攻不落の「テオドシウスの城壁」となった。結果的にこの城壁は413年に完成させた。テオドシウスの城壁により市域はそれまでの約2倍に拡大され、首都ローマに倣って7つの丘も設定された。


以後、ローマが急速に衰退していったのに対して、コンスタンティノープルの人口は増加し続けた。市内には、宮殿やハギア・ソフィア大聖堂(アヤソフィア、現在のアヤソフィア=ジャーミー)を始めとする正教会の教会、大浴場や劇場といった公共施設が数多く作られた。410年にローマ市が陥落すると、東ローマ帝国の人々には「コンスタンティノープルは第2のローマ」という意識が芽生えていった。


時の皇帝ユスティニアヌス1世のもとで、東ローマ帝国は最初の隆盛を迎え、コンスタンティノープルはアンティオキアやアレクサンドリアにも匹敵する世界的に見ても最大級の大都市にまで成長した。市民にはパンが無料で支給される一方、競馬場では戦車競走が連日開催され市民はそれに熱狂していた。古代ローマにおける「パンとサーカス」はこの時代でも帝国の東方では維持されていたのである。


首都の建築物もユスティニアヌス1世「大帝」 (在位:527-565) の建築事業をもって一応の完成をみた。大宮殿、9つの宮殿、元老院、市議事堂、裁判所、刑務所、153を数える浴場、ヒポドローム (大競技場) と小競技場、4つの劇場、病院、救貧院、孤児院、養老院、武器庫、400をを数える教会 (とりわけハギア・ソフィアこれらが市の中心、アウグスチオン広場にあるミリオン (軍道の里程標) のあるアーチを出発点にしたメゼー (凱旋通り) を中心に建てられていた。


以後 1453年の陥落まで首都の規模は変ることはなかった。


ユスティニアヌス1世の死後、7世紀頃になると、ユスティニアヌスの無理のある遠征計画によって経済は衰退し、そのほかにも皇族での争いなどもあって東ローマ帝国は急速に衰退し、領土は縮小していった。7世紀になるとサーサーン朝、次いでイスラムのウマイヤ朝によってシリア、エジプトなどの穀倉地帯を奪われ、皇帝ヘラクレイオスはコンスタンティノープル市民へのパンの支給を廃止した。


コンスタンティノープルは、西ローマ帝国の滅亡とともにヘラクリウス帝以後テマ制度を基盤に、ギリシア語を公用語とし、ギリシア的キリスト教観をもち、ギリシア文化の伝統のうえに立った旧ローマをしのぐ「新しいローマ」となった。6世紀の初めに50万人、中世盛期には100万をこす人口を擁したといわれ、文化、政治、経済、宗教の一大中心地であり、中世を通じて第一級の国際都市であった。


中興、そして衰亡


また、ウマイヤ朝イスラーム帝国の侵攻もたびたびあり、かろうじて秘密兵器であるギリシアの火を用いてイスラーム海軍を撃退することに成功したが、相次ぐ戦乱などから市民の人口も激減し、水道や大浴場といった公共施設は打ち棄てられ、市内には空き地が目立つようになった。


しかしながら、東ローマ帝国が東地中海の大帝国として復活した9世紀になると、宮殿や教会・修道院が多数建設され、孤児院や病院のような慈善施設も建てられ、大都市としての威容が回復した。古代ギリシア文化の復活とそれを受けたビザンティン文化の振興も進み(マケドニア朝ルネサンス)、コンスタンティノープルは東地中海の政治・経済・文化・宗教の拠点として大いに発展した。


徐々に東ローマ帝国が国力を回復させていくと、コンスタンティノープルにも再び活気が戻ってきた。766年には人口増加に対応するために水道が修復され、さながら古代ローマ帝国時代のコンスタンティノポリスがよみがえったようであった。コンスタンティノープルは戦車競走に熱狂していた古代の市民に代わって、絹織物や貴金属工芸などの職人や東西貿易に従事する商人などが住む商工業都市として甦ったのである。


経済都市としては、ロシア・ブルガリア・アッバース朝イスラーム帝国・イタリア半島・エジプト・アラビア、果てはインドや中国などの各地から多くの商人が訪れる交易都市として繁栄を遂げ、10世紀末から11世紀初頭の帝国の全盛期には人口40万人を擁する大都会となった。


当時の西ローマ帝国の神聖ローマ帝国にはこの10分の1の人口を抱える都市すら存在せず、コンスタンティノープルはキリスト教世界最大の都市であった。また、11世紀末から12世紀のコムネノス王朝の時代に帝国が再び強国の地位を取り戻すと、国際交易都市としての繁栄を謳歌し、まぎれもない地中海一の大貿易都市となった。


しかし、11世紀以降、イタリアの都市国家が東地中海に勢力を伸ばし、その中でも特にヴェネツィア共和国は東ローマ帝国と徐々に対立を深め、1204年の第4回十字軍を教唆してコンスタンティノープルを海側から攻撃させた。


1204~1261年の間は第4次十字軍のラテン皇帝を称したボードゥアン1世により占領されたが、その後にパレオロゴス朝初代皇帝によって回復された。


これによって東ローマ帝国は再興されたが、国力は以前に比べて格段に弱くなっており、帝都の大半は荒れるに任された。人口も7万人に減少し、貿易もヴェネツィアやジェノヴァといったイタリアの都市に握られてしまい、都に富をもたらすことはなかった。14世紀になると、コンスタンティノープルはオスマン帝国軍に度々包囲され、東ローマ帝国の命運も風前の灯火となった。


ただ、文化だけは最後まで栄え、古代ギリシア文化の研究がさらに進み、ビザンティン文化の中心としての地位を維持した。この文化の繁栄は、当時の皇室の姓(パレオロゴス王朝)を取って「パレオロゴス朝ルネサンス」と呼ばれ、西欧のルネサンス文化に非常に大きな影響を与えた。


その後も1453年にオスマン・トルコ帝国に征服されるまで帝国の首都としての機能を果たし、オスマン・トルコのメフメト2世によってイスラーム都市・イスタンブールとして新しい都市として改造された。

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